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ワクワク・ライフ・バランス

誰を向いて仕事をするのか?

あの日から

写真を振り返ってみた

 11月6日は私にとってとても感傷的な日なので、何だか過去を振り返ってみた。

もう16年も前

 2000年2月、タイ、そしてインドに約1ヶ月滞在した。今は自分の家族の写真を撮る事が多いけれど、当時を振り返るとファインダーはやはり(他人の)ファミリーに向いていた。特に子どもの写真が多く残っている。

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 【Bodhgaya】India

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 【Bangkok】Thailand

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 【Calcutta/Kolkata】India

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 【Agra】India

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 【Agra】India

 あれから16年経って、旅先で出会った家族や子ども達が今どうしているのか検討もつかない。当時のニューデリーは発展を目前に、都市開発があちらこちらで行われていた。泥だらけの旧市街を尻目に、舗装された道を歩くスーツ姿の白人男性を、私はぼんやり見ながらもそんな街中に興味が沸かず直ぐに旧市街に戻った事を覚えている。旧市街の街並みは迷路の様に道に迷いながらバザールを楽しむ事ができた。道を進む先々で様々な人間と出会え、子ども達はそんな街中を走り回っていた。

 今更ながら振り返ってみれば、日本の日常で見て見ぬ振りをしていたものを、見に行ったに過ぎないのである。

その2年後

 2002年9月〜2006年3月まで、イタリアで過ごした。実際の生活が始まるまで、タイやインドを旅した心持ちとは全く違い、「ヨーロッパ」という先進国へのバイアスが多きかった。語弊があるかもしれないが、(白人)ヨーロッパ社会へ憧れる東洋人の様な心持ち、と言えば良いのだろうか。*1

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【Roma】Italy

 真実はどうか。滞在許可証の取得ために、深夜から警察署に並び(それこそ各国の移民者と同様に)、全ての指の指紋を取られ、身体に模様があればその場で確認された。自分勝手に妄想していた牧歌的な「先進国」とは異なり、国家的なリスクヘッジがそこにはあった。当初は困惑したものの、それでも移民者を受け入れ続けるイタリアという国のホスピタリティを改めて認識できたのは、私に家族ができた頃だった。

遡って17歳のころ

 1995年4月から1996年3月にかけて私はオーストラリアのパースにいた。17歳になり、日本に居れば高校3年生を迎える時期である。交換留学制度もない時代、私は1年休学と言う名の留年を選択した。イギリスが開拓し、アボリジニが保護されている場所。異文化と植民地問題、そして民族問題を目の当たりにしたのはこの時だった。

20年以上も前の写真を引っ張り出してみたら、何かを言いたそうに自分がこちらを見ていた。
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【Hangover Bay】Australia

11月6日と11月7日

 先に逝った幼なじみが生きていれば今日で39歳。そして生きているもう1人の幼なじみは明日7日に39歳。私が日本から目を背けている間に、相変わらず足下の問題を見落として大事なものを失い続ける日々。
 タイやインドの街中を走り回っていた彼らの道は、今はもう舗装されているのだろうか。イタリアで「ギリシアから来た」と言う東欧人に「本当の国籍は」と、疑いの目を向ける日常はいつ無くなるだろう。今はもうアボリジニとすれ違い様に罵声を浴びせられることはないだろうか。
 世界も社会も個人も、大なり小なり問題は山積だけれど、良い方向に向かって欲しいと願う。そういう気持ちを抱き、忘れずに生きるために、私にとっての今日があるんだと思う。

誕生日、おめでとう。

*1:当時は「逆オリエンタリズム」という言い方をしていた。

【入社エントリ】ドメスティックから、外資へLet's join usしました。

新しい会社で働き始めました。

 退職エントリをアップした10月1日付けで、Indeed社にJoinしました。3日(月)から出社し、次の日には2020年までの中期計画策定の会議に参加しております。業界としては人材、という領域ですが、何が違うってベースがイングリッシュです。マニュアルからメールから、それこそPCの設定まで全てイングリッシュです。一応海外生活の経験はあるのですが、とは言え10年ぶり位の他言語ベースなので、慣れるにはもう少し時間がかかりそうです。

どんな会社か。

 2004年に米国テキサス州オースティンで設立された会社です(現在の本社所在地もオースティン)。その後の10年で世界ではNo.1の求人サービス(50以上の国と28の言語でサービスを展開)と言われていますが、一般的に、日本ではまだまだ馴染みが薄いだろうな、と思われます。サービスは独立型の媒体ではなく、googleの様な、求人に特化した横断検索サービスになります。
 規模として世界的には3,000人を超える従業員数で、日本オフィスは2013年に設立されています。日本オフィスは大きく営業と運用、そして開発の2チームに分けられ、私は今回営業側のDirectorとして参加する事になりました。

なぜ選んだのか。

 今まで一つの媒体社の専属として、事業や媒体企画、それこそデジタルマーケティングを軸に仕事をしてきました。そこで得たものはとても大きく、反面社外の他の求人サービスの状況により興味を持つ事になりました。前回の退職エントリでも言及をしましたが、

 だからこそ、もう一度“人”と“労働”を自分なりに捉え直してみようと思いました。

と言う思いがそもそもの原点です。人はどの様に仕事を探すのか。そもそもどうして仕事を探そうとするのか。そして、その仕事に決める理由は何なのか。そういった本質的な事を、それまでとは違った視点で再考したいという単純な動機でしかありません。
sokayasu.hatenablog.com

これから。

 まだまだ参加して3日しか経っていませんが、本当に運良くその3分の1位は、いつもは米国本社にいるPresidentと言われる社長や、その周辺を固める副社長などと時間を共にすることができました。また少ない時間ながらCEOとも話をすることができ、会うべき人に会う事ができました。
 とは言え、認識しているミッションはとても大きなもので、どの様に実現していくかは、私自身これから素材を集めなければいけない状況です。もちろん冒頭のイングリッシュは必要なスキルであるのは事実ですが、それ以上に日本の労働市場において、グローバルサービスをどうジャパンローカライズしていくべきかは、まだまだ検討の余地があるなと感じた次第です。

ミッション。

 その証拠にIndeedのミッションは、

We help people get jobs.

 という言葉に尽きます。日本の文化の中で、日本人が、それこそ人々が望む仕事に就くためには何が必要かを考え続けなければなりません。これには雇用側も被雇用側も巻き込み、またそこに携わる労働市場の様々なプレイヤーを巻き込みつつ、改めて日本人の働き方を再考するタイミングなんだと感じています。

 私の名刺の裏にもこう書かれています。

I help people get jobs.

 これからも宜しくお願い致します。

【退職エントリ】岡安、アイデムやめるってよ

アイデムを退職する事となりました。

 9月末を以て、2006年4月からお世話になった株式会社アイデムを退職する事となりました。入社した当初には全く想像もつきませんでしたが、結果約10年という月日となりました。在職中にお世話になった方は数知れず、多大なご厚情を賜り誠にありがとうございました。反面、面と向かって退職のご報告ができた方は少なく、退職のご連絡がメールや電話になってしまった事、とても心苦しく思っております。この場を借りて、お詫び申し上げます。

と言うわけで10年分の思いの丈を。

 28歳社会人経験なし。日本での在籍先なし。つまりはニートの私が「タウンワーク(本当はジョブアイデム)を見てお電話しました」とたどたどしく電話応募し、DTPなんて商用環境でやった事ないのに「QuarkXPressPhotoshopIllustrator完璧です」と見得を切り、「なんでこの会社選んだの?」という質問に、「家から自転車で通える距離だったので!」と言う志望動機で入社できたあの日。「漢字テストあるよ。“あいさつ”って漢字で書ける?」と言われ(漢字が全く書けません)、入社への道のりで一番漢字テストを恐れていました(結局、何故かテストは無かった)。

 詳細は長文になるので割愛しますが、

入社→リーマンショック→部署縮小→異動(勤務地変更)→異動(勤務地変更)→異動(職種変更)→新規事業企画→異動→媒体企画→プロモーション(広告・宣伝・Web・PR)兼務→事業企画・開発兼務→新規部署立ち上げ(職種変更)→異動(管理職)→基本全部兼務→今に至る。

 という濃密な10年でした。多分全体の従業員数から考えればあり得ない位のジョブローテーションの機会に恵まれたなと思います。ありがとうございます。

アイデムという会社について。

 アイデムには、

企業は人なり。企業は常に未完成でなければならない。企業は動的でなければならない。

 という経営理念があります。これは毎週月曜日に「唱和」という形で、社員全員で起立し発声しているわけですが、その光景を目の当たりにした初日は吐き気を催した事を記憶しております。その内容にではなく、「ああこれこそ忌み嫌っていた『ようこそビジネス社会へ』という儀式だ」と。ただ仕事をしていく中で、その内容を自分なりに深く考える様になりました。
 「つまり認識論だ」と、捉え直したのは3ヶ月が経とうとする頃だったかと思います。アイデムは株式上場をしていないオーナー企業です。少なからず、その経営方針を揶揄する言葉が社内でも聞かれます。「会社が変わらない」「会社が決めた」「そんな会社だよね」という言葉を聞く度に、いやいやそう規定しているのは“自分自身だよね”と、改めて企業理念を振り返る様になりました。
 私は天の邪鬼なので、企業理念を逆手に取りました。それはつまり“オーナーが決める事が会社(の方針)、ではなく、人=自分が決める事が会社(の方針)であり、かつそれは転がり続けるものでなければならない”と認識する様になりました。そこからは業務領域を大きく跨いだ企画・提案の連続です。当時の上司からすれば面倒くさい人間であった事は確かですが、それでも結局認めてくれていつでも背中を押してくれました。
 結果、媒体の規格を変え、何年も止まっていたマスプロモーションを再開し、新たな事業や企画を展開しながら、アイデムでは苦手とされていたWebプロモーションへの投資を実施する事が可能になりました。今では仮面ライダーゴーストで御成役を演じる柳くんを起用した新卒サイトJOBRASSのCMを作ったり、ACC(日本CM放送連盟)で入賞したイーアイデムのCMバイト戦士など、オンライン施策だけでは体験できない“撮影現場”を体感させてもらいました。何より今では毎年継続されているアイデムカップの立ち上げは今となっては良い思い出です。
www.a-stadium.com

アイデム演劇プロジェクトとして、動画マーケティングを継続しています。
アイデム演劇プロジェクト シャーロックンロール・ホームズ | 地元を再発見するならイーアイデム

何をミッションとしていたのか。

 「岡安さんは、何を担当している方ですか?」と、名刺交換をする度に聞かれます。最終役職は“株式会社アイデム 東日本事業本部マネージャー”ですが、担当職種は記載されていません。言ってしまえば企業運営における、人事・労務・採用関連に関する業務以外全てが業務領域となります。プロモーション領域においては、オンライン・オフライン関わらず(兼務ではありましたが)全てを統括することとなりました。もちろん営業本部としての役割を担っていたので、日々の営業進捗などを見つつ、という感じです。会社全体の売上を拡大し、利益を上げること。そのために営業推進策を検討・実施し、媒体への集客を強めること。それらがミッションとなっていました。※結局引き継ぎの段階になって、色々な人に仕事を振り分ける(投げつける?)事になったわけですが…。

個人的に目指していたこと。

 私はアイデムに入社するまで考古学という分野にいました。学問分野においても社会科学なのか自然科学なのか、とてもイメージがし難い分野ですが、いずれにしても“人”を捉え考えることは今の仕事に共通していました。特に“労働”という概念については、どの時代を通しても“人”についてまわります。労働市場という、一見考古学からは遠いマクロ経済の分野ではありますが、今の仕事を通して改めて“人”の歴史を立体的にイメージができる様になりました。
 例えば、私は仕事をしたくありませんと言うと語弊がありますが、正しくは私は仕事を“させらたく”ありません。望まぬ労働に強制的に就かされるよりも、できる限り自分の生き方に寄り添った労働状況であればと思います。とは言えいずれにしても人は働かざるを得ません。マルクスが言及した歴史の発展様式や生産様式に代表される様に、主義・思想がどうであれ、“人”と“労働”の関係性を改めて考えさせられたのです。
 とても抽象的な表現になりますが、“人”の“労働”を規定し強制するものは何か。また“人”が盲目的に、いわゆる思考停止をし“労働”を受け入れる社会が、またその上位数%が資本を持つ者として目指すべき目標として認識される社会が、私たちが本来的に望んでいる社会なのか、そんな中二病的な問いを繰り返し再考する様になりました。
 だからこそ、もう一度“人”と“労働”を自分なりに捉え直してみようと思いました。

コンテンツマーケティングとコンテキストマーケティング

 プロモーションを実施する際に、「労働を通し(あなたは)どう在りたいか」を想定し、「(あなたにとって)私たちのサービスは有益です」「私たちは(あなたの)味方です」と言うメッセージを込めます。これを考える事が私にとっては一番厄介な、骨の折れる仕事となりました。商業的、経済的なビジネスマンは、当たり前の話しですが前提としてマネタイズを考えます。つまりは儲かるかどうかを優先した後に、倫理的な整合性を取りますので、検討スキームはある意味フレーム化されています。私の場合はその段階から手が(思考は止まりませんが)止まります。
 「労働を通し(あなたは)どう在りたいか」ばかりを考え続けてしまうのです。もちろん統一的な答えなどありません。その中でアイデムとして、また日本の労働市場として、結果としての収益モデルをイメージします。そんな事を繰り返している中で、コンテンツマーケティングという手法がトレンドとしても注目される様になりました。当初は、はてなさんやデイリーポータルZさんと取り組みながら、アイデムとしての型を模索していきました。その過程でジモコロに辿り着きました。正しくは、柿次郎さんに出会いました。
markezine.jp

ジモコロという思索

 ジモコロについては何度も言及していますので、詳細には触れません。ジモコロは一言で言えば“多様性”です。地元や労働を軸にしながらも、より“人”の“多様性”を見せてくれるものです。それは、もちろん読者にとっての“多様性”であり、アイデムとしての“可能性”でもあるわけです。私が悶々としていた労働への態度が、ジモコロの中では姿形を変えて次から次へと展開されます。ジモコロは、地元に転がる(コロッケ?)情報を届けるメディア、というコンセプトですが、そこで描いているのはやはり“人”なのです。そういう意味では、ジモコロが更新され続ける限り、“人”の多面的な“労働”を伝えてくれる装置として存在してくれるのです。

退職の理由。

 “人”と“労働”を考え続けてくれる装置ができたから辞めるわけではありません。アイデムが嫌になったから、でもありません。企業は人なり、自分なりですから、それを否定することは自分を否定することです。私はいつでも考古学の世界に戻りたいと思っていますし、考古学に携わる仕事に就けたらと思います。反面、労働情報を提供する側として、その世界を見るととても限定的な領域です。とても皮肉な話しですが、日本の文化財調査の95%以上が経済的な要因に依るもので、「ここに重要な文化財があるから調査しよう」というものはほんの数%です。つまりは前述していた労働市場の構造に近いのです。
 退職のきっかけは7月に参加したジモコロ熊本震災イベントの取組が大きいです。メディアの力を再認識した事。またそこに参加している様々な働き方を示してくれる人々。だからこそ、という理由にはならないかもしれませんが、改めてビジネス社会において学んでみようと思いました。アイデムとは異なった文化で仕事をしてみたいと思いました。退職の理由は本当にそんな単純な理由です。
kurokawawonderland.jp

御礼

 何よりアイデムの皆さま、今まで誠にありがとうございました。繰り返しになりますが、私のビジネススキルはアイデムで培ったものとなります。特に私の近くで仕事を共にしていた方々にはご迷惑ばかりをかけたかと思います。本当にありがとうございます。
 またプロモーションを実施するにあたり、様々な事業者様、代理店様にお世話になりました。とても面倒臭い広告主側だったろうな、と自分自身認識しております。特にgoogle社やフリークアウト社には無理難題ばかり。お付き合い頂きありがとうございました。
 そして直近では、柿次郎さん(id:kakijiro)、望月さん(id:hirokim21)、DPZ安藤さん(@hige_bowz)、小松さん(id:ShoheiKomatsu)、そしてはてなの高野さん(id:mtakano)、いつも私の与太話に付き合ってくださいましてありがとうございます。

これから。

 10月1日〜は別の会社に在籍する事となり、10月3日から、つまりは週明けの月曜日からは他の会社に出社致します。(入社エントリはそのタイミングの予定です。)
 またWebマーケティングやアドテクに向き合う中で、(特にジモコロが大きいですが)セミナーの登壇や講義など、コンサルティング領域でのニーズが増えて来ました。この領域においては、引き続き自分の力を伸ばしつつ、個人的に取り組んでいければと思います。アイデムとして、という看板が外れて、どの程度話しが来るかわかりませんが、お声がけ頂けると幸いです。

最後に。

 「元気でな。良い奴だったな。さよなら。」と笑いながら送り出してくれたアイデムに、愛を込めて。今まで本当にありがとうございました。色々とありすぎて、書ききれませんでした…。

ボランティア、NPO、CSR?とかって、もうどうでも良いよね。#ジモコロ熊本復興ツアー


 目の前にはあふれるばかりの自然と、不自然なブルーシートが広がっていました。

本当は迷いに迷って。

 「熊本に行く。できれば子ども達も連れて。」
 「いや、意味わかんないし。何でこんな時に?まだ余震もあるんだし、そもそも現地からすれば迷惑なだけじゃない?」
 迷いに迷って口に出した僕の言葉に、奥さんは続けて言いました。
 「私たちには、ここからできる事だってあるでしょう?」
 「だったら、僕は1人で行くよ。」
 その後の数日は夫婦仲がギクシャクしたのは事実です。ただ結果的に「わかった。行く。せっかくだから行こう。」と僕よりも前のめりになってくれたのは、いつだってポジティブな奥さんでした。*1

個人としても、どこまで足を踏み入れるか迷っていました。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kakijiro/20160731/20160731210708.jpgwww.e-aidem.com
 ジモコロ、というよりはid:kakijiroと田村祥宏さん(EXIT FILM)の企画として始まった熊本復興支援ツアー企画。id:hirokim21田中さんはじめ、様々な方々が企画を支えていました。もちろんジモコロに携わる身として、また会社人として、どこまでコミットするべきなのか考えあぐねていました。どちらかと言うと「復興支援」という言葉を纏い行動することに、自分自身の立ち位置に迷いがあったのは確かです。*2

子ども達に見せたかったもの。

 結果、参加して得た物はとても大きく、お金では買えない物を改めて認識しました。会社としては全く広告など展開していない地域ながらも、髙橋町長や黒川温泉の皆さまの「イーアイデムさんが」という言葉に逆にハッとさせられました。そして「パパの会社だね」という子ども達の声は、色々な迷いを吹っ飛ばしてくれました。


 長女はこの時間で色々なものを見聞きしました。
 柿次郎さんが引っ張っているジモコロというメディアは、ただ面白いメディアではなく、人に感謝されるメディアになっていたのです。それもオンラインではなく、オフラインで、しかも地理的にも集中された場所で。

自然も人も素晴らしい場所でした。


ここが南小国の水源である、立岩水源公園。川沿いを歩きました。


川沿いを歩く中、カエルを見つけて子ども達は大興奮。


初めてのノコギリで竹コップ作り。この竹コップで流しそうめんを食べました。


僕の子どもの頃には身近にあった笹の葉、いつの間にか身の回りから無くなっていました。子ども達は笹船の作り方を教わりました。

感謝されるより、感謝ばかりの2日間。

宿に泊まっていても感謝の言葉で迎えられました。黒川温泉のホスピタリティに包まれながら、温泉手形を握りしめ、家族で温泉をハシゴしました。各ブロガーさんがカメラ片手に走り回る中、我が一家はとにかく温泉に浸かりました。黒川温泉は最高です。今ではもう予約が取れないのも理解できる程に。

そして浸かりながら、そんな機会を設けてくれた柿次郎さんに心ながら感謝をしていたのは秘密です。

そして目的が決まりました。

 今回のツアーで、様々なふれ合いと経験を通して子ども達は明らかに成長しました。以前は、飛行機さえ乗った事がない彼らです。そんな中、長女は何かを感じたのか親の知らない間にこんな願いを短冊に書いていました。

 自宅に戻り、黒川温泉の方がアップされた写真を見て初めて知りました。「復興支援」という言葉に対する僕の立ち位置の迷いがとてもちっぽけに思える位に率直なコメントです。彼女も1人のライターとして、夏休みの自由研究として震災についてまとめるそうです。

 今回の企画への本質的なアクションは、彼女が学校内で発表する事になると思います。

最後になりますが、田村さんが寿命を削って制作してくれた映像が素晴らしいので是非ご覧下さい。
子ども達も楽しそうです。
youtu.be

オチですが、

ジモコロの初期企画の提案はこのコンビでした。

*1:ちなみに彼女は子どもを3人産みつつ、末っ子が生まれるや否や看護学校に4年通い、看護師と保健師をストレートで取ってしまい(4年間の睡眠時間は、『俺、徹夜続きで超仕事馬鹿』と言うビジネスマン以下だったと思います)、そのまま新卒看護師として就職する様な女性なので、その行動力にはいつも圧倒されてばかりなのです。

*2: これは未だに迷いのある問いですが、阪神大震災ではボランティア活動とされていたアクションが、東日本大震災ではNPO法人としての活動に変化していました。そしてそのNPO法人を支える資本の実情が100%投資会社だったりすると、資本を利用するとものと、善意を利用するものに対する投影としての「復興支援」対象であったりすると、ますますわからなくなるのです。NPO的な独立性が一つのファッションとして利用されていないか。結局、資本を入れるのであれば、所属していた会社から資本を引っ張る事と同義ではないのか。何より所属していた組織から資本を引っ張れなかったから独立している様に見せて、実際手にしているのは自身の疑似自由性なのでは、と。そしてそう捉えること事態が、既にニヒルになっていやしないか。ここはid:hirokim21と一度、72時間位、また温泉に浸かりながらゆっくり議論をしたい所ですが、僕の答えは「祈るな!!祈れば手が塞がる!」という言葉に帰結すると思います。

地元と仕事のルネサンス

ジモコロ マーケティング ひとりごと

ようこそ。

 柿次郎さんの言葉に引っ張られてブログを書きます。(多分メールとかメッセージとかで伝えて終えられる内容ですが。)

それは何十年、何百年にもわたって紡がれた歴史をたった数時間で理解するなんて不可能だってことです。無理無理! むしろ、おこがましい!

 柿次郎さん、歴史と文化の世界へようこそ、と言うのが一番の感想でした。
 私たちが掲げる「地元ルネサンス 仕事ルネサンス」には、柿次郎さんが感じた諸々の文脈や背景を含んでいます。知っているはずだった地元を再発見すること。また、そこにある(あった)仕事を地元の文脈として再発見すること。ちなみに地元の定義として、小中学生時代の通学路を一つの範囲としました。それはつまり徒歩のスピード、または自転車で行き来できる距離感を示しています。

みんな売れ始めています。

 ジモコロを初めて、それまであまり脚光を浴びていなかったライターの記事や類似の企画の切り口を、同業他社含め目にする様になりました。属する会社がどうであれ、個人的には良い傾向だと思っています。ライターとしての職業が、現実的な一つのポジションを得られるのであれば、雇用の創出という側面でも意味があったと考えています。その分、ジモコロは先へ先へ行かなければいけないとも考えています。

一次情報が全て。

 各地の一次情報を得ること。それがジモコロの一つの武器ではありますが、「地元・仕事・面白い」という軸だけでは、単純に消費される記事になってしまいます。何となくその時は面白くて、流行りの仕事が垣間見えて、それはそれでコンテンツマーケティングの意味を成すのだと思います。但しそれはルネサンスに繋がりません。エンタメとして一時的な消費活動となり、他記事などに駆逐されるだけの情報でしかありません。つまり一次情報が見つかれば誰でも(どのメディアでも)良い、となってしまいます。

新たなステージに。

 柿次郎さんが感じた歴史の文脈が一つの答えだと考えています。ジモコロを半年ほど動かした時に、「ジモコロは次のステージに行かないといけない。今はまだ消費されるだけの記事ばかりだけれど、消費されない、今後も言及され続ける記事を出し続けなければならない」と、何となくのビジョンを定めました。結果的に2015年の年末から、ジモコロの記事は立ち上げ当初に比較し、より「仕事」に寄り添った記事が増えています。

仕事が全てではない。けれども、そこには人の歴史がある。

 各地の取材が増える度に、各地の歴史が紐付いて来ます。地元を代表する仕事には、地元の文化に紐づく仕事があり、その仕事にもまた歴史があります。そこを掘り下げて、またわかりやすく伝えられるのがジモコロの良さだと思います。ただ「面白い」と消費されるものから、「面白く、そして今後、はたらき方を確かめるために何度も読みなおす」ことができる記事こそが、今後のジモコロの在り方を示してくれるものだと私は考えています。

面白さと仕事と文化と歴史。

 歴史は固く見え、歴史的知識は一般の仕事においてあまり意味を成しません。だからこそジモコロという表現手法が有効的だと思います。一見、消費的でエンタメ的情報に見えても、読み解いてみれば、あまり光が当たっていなかった仕事や労働の歴史が立体的に浮かび上がってくる。一見すればコミカルな内容も、実は様々な課題定義をしている、猫を被った媒体。ある意味で、誰もが楽しめる、そんなメディアであり続けられればと思っています。

知っていましたか?5円玉をお賽銭にしても効用は薄いという事を。

考古学 歴史学

考古学って知っていますか?

 「元々は考古学をやっていました」といつも自己紹介しています。だいたいにおいて誰もが鳩が豆鉄砲を食った様な表情になります。ないしは「光化学スモッグですか?」と「考古学」という言葉を初めて聞いた様な返答も時々はあります。実際に私は大学で考古学を選考し、今の会社に入るまでの10年間、考古学の世界に身をおいていました。遺跡の発掘をしていたのです。今回はつい先日、大学時代の恩師の最終講義に出席し改めて学んだお話しです。
 恩師である先生は大学卒業後すぐに、ある文化財の調査に携わります。その現場見学初日に、違和感に気が付きます。発掘調査はほぼ終わっていると言われる地面を見渡すと、手付かずの遺構が散見されたそうです。当時では掘る意味が無いと思われていた遺構を、配属後、先生が担当する事になりました。「入ってきた新卒がいきなり生意気な口を聞いたために、雑用を押し付けられた感じですね」と先生は苦笑いをしていましたが、その「発見」は成田山新勝寺の縁起にも関係する様な重大な物でした。結果、成田山には直接関係は無いと結論づけられました(その結論付けも、大学出たての先生が行いました)が、日本社会の根底にある格差不安の歴史を浮き彫りにする発見となりました。

悔過(けか)って知っていますか?

 先生の調査の結果、手付かずの遺構は寺院建築に関係するものでした。その後、双堂建築と推定され(私が在学していた頃はそこまで明確ではありませんでした。)ましたが、その瞬間的な気付きと自己の違和感への従順性は見習うべき点が多いと感じました。
 さて双堂建築とは何でしょうか。一番有名なのは、東大寺法華堂になります。正に来月、修二会が行われますが、その後の調査で8世紀後半には奈良(大和)から離れた東北から九州まで同じ様な構造の遺構が報告されています。では東大寺法華堂は何を行う施設なのでしょうか。
具体的な説明はコチラ
 お水取り、お松明と言われる法要ですが、公式には「十一面悔過」と言われます。悔過(けか)とは何を意味するのでしょうか。

「十一面」とは「十一面観世音菩薩」のこと、「悔過(けか)」とは私たちが生きる上で過去に犯してきた様々な過ち(あやまち)を、本尊の仏前で発露(ほつろ)懺悔(さんげ)する(告白して許しを請う)ことをいう。

詳細は
用語説明 其の二|修二会|年中行事|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
 悔過とはつまり懺悔し、自ら犯した罪や過ちを悔い改めることを指します。注目すべきはその事例が8世紀後半には東北から九州まで、一般的(公的な遺跡以外でも)な遺跡にて存在が認められたことです。

「書かれたもの」と「書かれなかったもの」

 脇道にそれますが、いわゆる歴史学史料批判(検証・研究)を対象とします。歴史学が対象とする主な史料とは「書かれたもの」です。対して考古学は物的史料をメインに対象とします。時代を遡れば遡る程、「書かれたもの」は少なくなりまた偏りが生じます。つまり高貴な位のものほど保存されやすく、民衆の生活は史料化されにくい、と言うのが実際です。結果的に、歴史学は政治学などの公的な歴史を批判(検証・研究)する研究が多くなり、「書かれたもの」が少ない民衆の歴史は立体化が難しくなります。昨今の考古学は後者を対象に、物的史料から「書かれなかった」民衆の歴史の発見が多くなっています。

仏教はいつから?

 先生が着目した点は、総国分寺とされた東大寺と各都道府県の国分寺国分尼寺の在り方と共に、そこに配置された法華堂と同様の構造の建築物が、東北地方から九州地方の集落遺跡に散見されるという事実でした。8世紀の日本は、仏教による国家鎮護が推し進められた時代です。先生はその浸透度合いを、大学卒業後の違和感から退官に至る研究期間にて実証されました。つまり今に至るまで、当時の偉い人から下々の者まで神や仏に同様の概念で参り始めたのは、8世紀中葉〜後半である、と。それが神・仏の存在価値が一定に認められた次期である、と。
 私たちはお参りの際に5円玉を用意し、「2礼2拍手1礼」をお参りのスキームをしていますが、先生は意味が無いと言います。そんなものは近世以降(江戸時代)の新しい文脈だ、と。つまり古来からお参りには十一面悔過に代表される悔過を行ってからでないと、お参りの意味を成さないと言われます。古代の悔過では、「水に流す」という行為が当てはまります。今でも水に流すと言いますが、考古学上では様々な遺物(字が書かれた土器など ※墨書土器と言います)が当時の川底から発見されています。また今でも色々なものを川に流す儀礼は多いです。例えば、ひな祭りの流し雛などが概念としては近いかと思います。その根源は「水に流し懺悔する」という意味を帯びているのです。

いつの間にか人々は祈りだしたの?

 これは大きな発見です。仏教伝来から仏教の一般化まで官側の動きは史料批判から可能な限り明らかにされておりましたが、「民衆への伝播実態はどうか」という疑問には応えられていなかったからです。仏教伝来という文脈では6世紀半ばから語られますが、741年国分寺建立の詔の際にはまだまだ日本各地に仏教は根付いて居なかったと考えられています。だからこそ鎮護国家のために国分寺建立が推し進められたと考えられていますが、先生の仮説では神仏への宗教心と、悔過に代表される宗教活動は中央(ヤマト)から地方(関東、東北、九州)まで、「同じ概念・手法」が伝播していた、というものでした。
 この概念の発見を現在から未来に置き換えると、例えば今から2,000年後にクラウドサービスのデータセンターが発掘されます。今はデータの世界で物的証拠も全てデータ化されていますので、文字史料はより残り難くなるかと思います。するとシンクライアントに代表される様な簡易端末がネットワーク越しにクラウドサービスを活用する世界の仕組みや概念が、しっかりと後世に伝わらなくなる可能性があります。すると発掘されたデータセンターは、「持てる者が作った何かしらの施設」と考えられるでしょう。そういったものが全国各地に発見されると、「ある階層の生活には同一の施設が付帯する」と考えられるかもしれません。本当はただのデータセンターで、利用元は私たちの様なエンドユーザでもあるにも関わらず。もっと言えば「ある階層」に限定されると考えられる施設利用は、実際の所限定される事無く、それこそエンドユーザのために設計されたものであるにも関わらず、です。

文化を掘ろう。

 古代の悔過という行いと双堂建築の発見は上記の様なものだと思います。中央政権がその正統性を知らしめるために行った悔過施設の一般化。地方豪族が中央との争いや、他豪族との争いの中で悔過を行った遺跡。格差が生じ始め、日々の生活に不安を感じ始めた民衆が行った行為。公的なもの、地方の豪族、一般の民衆まで8世紀初頭から後半までにかけて同一の遺跡分布が認められたのです。
 先生は「8世紀が社会主義的世界から資本主義世界への転換」とし「社会的格差のために、個人でも各神仏に祈らねばならない」と、人の動きに焦点を当てまとめていました。8世紀を境目に今の日本社会では当たり前とされている儀礼が成立しており、またお参りする不安感は現代に通じるものがある、としています。
 先日の記念公演に参加し、この歴史のダイナミクスとまた考古学の可能性を改めて認識しました。今後は、悔過をした後にお参り下さい。ただただ5円を投げてお参りしても効用は薄いやもしれませんので、ご注意ください。

なぜ2015年になっても車が空を飛んでないのか?

イノベーション マーケティング

 今年も残す所、後25日です。ジモコロの用意をし始めたのが、昨年の今頃だった気がします。2015年は、良くも悪くもジモコロに集約される年だなと思います(まだ終わってはいませんが)。ただそんな中でも個人的に気になっていたのは、ネット上でも話題にもなっていた映画「Back to the Future Part 2」で描かれた年でもありました。

 1989年の公開時、私は11歳、小学校6年生でした。2015年になれば、それこそ21世紀になれば、未来的な様々な(空想)技術が当たり前になって、少なくとも誰もが空を飛んで移動している時代なんだと想像していました。しかし当時の26年後の今、残念ながら映画の中で描かれていた空飛ぶ車や、ホバーボードは一般化されていません(それぞれ試作はされている様です)。

 なぜ、それらの技術は一般化されなかったのでしょうか?ドラえもんひみつ道具にも言える事ですが、「あったら良いな」という技術がいくつもあったはずです。少なくとも移動手段として空を飛べる様になる、というのは(運転難易度は別にして)移動時間を現実的に短くしてくれる技術革新だと思えます。SF映画ともなれば当たり前の様に、人は空を飛んで移動しています。

 現実的には各種利権や商業的・政治的課題、何よりインフラ整備の投資などがすぐに思いつく課題かと思います。ではなぜイーロン・マスクは宇宙開発を行っているのでしょうか?宇宙に出たとしても、上記の諸々の課題はついてまわる話しだと思えます。持って回った言い方かもしれませんが、「2015年になっても車が空を飛んでいない」理由は、『そういった時代を本気で築こうとする人がいなかった』と言及できる気がします。

 マーケティングでは各種データを用い想定される市場や仕組みを予想してくれます。今を生きる人や、持続性が求められる企業からすれば、実現可能性の高い(精度に依存しますが)未来に導いてくれるかと思います。しかしイノベーションの文脈で語られる未来は、正にBack to the Futureの様に、『今の文脈からシミュレートできる未来ではなく、文脈の外(シミュレートできない)の未来』を求められるケースが多いのではないかと感じます。

 そう考えると電気自動車ディーゼルなど、『今の車のあり方はそのままに、エネルギー問題に焦点を絞り売上拡大を目指す』という路線は、事業としては理に適っている事だと思います。だからこそ(カウンターとして)、宇宙を目指すイーロン・マスクは、その技術を車に反映させたのではないでしょうか。宇宙への往復技術が確立されれば、もしかしたらその技術を元に車さえ飛ばすかもしれません(そういった未来に興味があれば、ですが)。

 ただしそれは『(安定的に)売れるか売れないか』を前提に考え行動するか、『世界を変える』ために行動するか、その価値観に依存しています。ジョブズが世界に提案した、ワンボタンマウスやブロックアイコンのインターフェースなど、後者は結果的にスタンダードになっていますが、前者のシェアは世界的に見れば数%でしかありません。それでも、ジョブズのプレゼンに私たちが期待していたのは、マーケティングに裏打ちされシミュレート可能な打算的な市場成長よりも、『私はこのプロダクトで、世界を変える』というメッセージだったと、今更ながらに考えさせられています。

 だからこそ、2015年になっても車が空を飛んでいないと嘆くのではなく、結局、開発されなかったと誰かのせいにするのでもなく、『2015年に、私は車を飛ばすにはどうしたら良いのか』に向き合う必要があったのだと思い知らされました。私たちが目にする(空想)未来像は、あくまでも空想です。結果、それ以上の技術発展もあれば、全く近づかない(現状と変わらない)未来もあります。それは一重に、『そういった未来を望むのであれば、自ら実現できる様に』行動していれば、少なくともタイヤ位は空を飛んでいたかもしれません(そう考えるとドローンはその派生なのでしょう)。私が望む未来は誰かの手に託すのではなく、自ら実現できる様に取り組むのが実現可能性を高める方法だったのではないでしょうか。

 どこかの誰かが素晴らしい未来を見せてくれて、どこかの誰かがその未来を現実にしてくれて、自分はその現実を享受して『人間て凄いね』と他人事の様に便利さを受け入れている今日この頃。客観的なデータに基づいた話しは安心感があるけれども、小学6年生の自分が描いていた未来に近づくためには、今あるデータや文脈の外に出る事が手始めの様な気がしました。世界をどう変えたいのか、という問いは大げさだけれども、未来の自分はどんな世界に生きているのかを想像し、そのワンシーンを自ら実現できれば、結果的に世界にインパクトを与えるイノベーションになっている、という事なんだなと改めて独りごちた師走となりました。